久しぶりにミニマルな話題です。
もうすぐ年の瀬ということで、雑多になってきたキッチンを確認してみると出るわ出るわ。
賞味期限切れの食材。
普段は使わない頂き物のカレーのルー(我が家は普段ルーなしカレー)、娘の「コロッケ食べられる」という言葉を信じて買ったパン粉(作る前に冷凍のコロッケをあげたら全く食べなかったから、作る機会が永遠に失われた)、またまたもらったスープの素(よくよく見たら食べられない食材が含まれてた)、頂き物のお菓子
娘が生まれて、私が好きなもの、夫の好きなもの、娘の好きなものを買うので、購入する種類が増え、さらにそこから頂き物もあって、我が家のキッチンはいつの間にかぎゅうぎゅうになっていました。
けれど、家でちゃんとご飯を食べる機会は意外と少ない。
娘は昼間幼稚園だし、夫も仕事だ。
私も一人で食べるときは適当で、パンだけ、肉まんだけなんてことも多い。
だからこそ、残る。
食材が……残る。それが少しずつ少しずつ溜まっていき、そこに頂き物が入ったりすると、もう駄目で。
私の処理能力がパンクする模様。
あまりの食材の多さに、逆に何を作ってよいやらと頭を悩ませ、消費期限管理ができず、ついつい期日を越えてしまう。
少ない食材ならできていたことが、食材が多いとできない。
そう考えると、料理人はすごいですね。もちろんおいしい料理を作れることもすごいのですが、大量の食材でも、少ない食材でもなんとかできる能力がすごいなと思います。
それができるということは、あらゆる食材のおよその消費期限とあらゆる食材の使用用途、つまりレシピが頭に入っていて、なおかつそれを作れる技術があるということだから。
以前、読書について話したときに「わかるということ」についてこんな風に話したのですが。
こうやって文字に起こせば当たり前のことですが、「わかる」というのは「文字が読める」ことではなくて、「文字の意味を知っている」わけでもなくて、そこに書かれている点と点が結ばれること。
結ぶためには、文章内には書かれていないけれど、知識として知っている自分の頭の中にある点とも結びつけなければならない。例えば、「パジャマを着替えさせるために踏み台に娘を立たせた。」という文章があったとすると、パジャマも着替えも踏み台も、娘も何もかも文字は読めるし、単語の意味が分かるのに、どういう状況なのか全くわからない。
点と点がつながらないから。
これは私と娘のお風呂上がりの行動を文にしたものなのです。
最近娘はイヤイヤ期真っ盛り。
でも星を見るときは大人しくなる。
だから私は「お星さま見ながら着替えようか!」と言って、娘が空が見えるように(我が家は下半分がすりガラスなので、まだ身長の低い娘は踏み台に乗らなければ窓の外が見えない)窓辺に踏み台を置いてその上に娘が乗り、その間にぱっぱと着替えを終わらせてしまうと言う訳なのです。そういう背後の関係を知っていて、その関係が文章と結びついたとき、ようやくさっきの文章がわかった!となるのだと思う。
『わかるということ』主婦の手帳
それと同じで、「料理」というのは、レシピを知っているだけでも、食材のことを知っているだけでもだめで、食材の知識とレシピとそれを実現する技術があって初めて料理ができるのだと思う。
点(食材)と点(レシピ)と点(技術)がつながれば、消費期限を切らしてしまうことも、使えると思って買ったけれど、使えなかった…ということもなくなるのかもしれない。
そう考えると光が見えてくる。
私たちは料理人ではないから、あらゆる食材、あらゆるレシピ、技術に精通しなくてもいい。
私たちの好きな食材、好きな調理法を極めていくといいのだ。
前述の読書の話をしたときに、ちゃんと読書を自分の中に残しておくためには、1冊の本を何度も読むよりも(もちろん1回読むより2回の方がより分かるのですが)その本と同じジャンルの本を読んだ方がわかる。
ミニマルの本を1冊読むより、いろんな方のミニマル本を読んだ方がより自分の中にミニマルな気持ちが残るし、ファンタジーを読みたければ、いろんなファンタジーを読んでいった方がより理解が深い。
それと同様に、あれやこれやと新しいレシピ、新しい食材に手を付けるのではなく、トマトが好きなら、トマト料理をいろいろと作っていく。
煮込みが好きなら、煮込みを極めていく。
好きなものから少しずつ広げればいいのかもしれない。
もう最初から決めておく。夫が好きな唐揚げ以外のあげものはしないぞと。
皆が食べない煮物は作らないと。
おせちなんて作れなくてもいいじゃないかと。
そういうのは、今後私の食材知識、レシピ、技術が上がったとき。
こんな風に家族の好きの周辺の料理しか作らないと決めて、家族の好きな食材、調理法の「料理」が上手くなったら、余裕が出たら、その少し外側の料理にも挑戦するという形で、レシピを増やしていくのがいいのかもしれない。