以前書いた記事に広く浅く読むよりも、興味のあるモノを深堀していった方が良いという話を書きました。
娘が何度も何度も同じ絵本を読むという話を引き合いに出して、何度も読んだ本の方が自分の血肉となっている話をしました。
むしろ、1回読んだだけの本など読了後はなるほどと思っていたり、読書中はとっても楽しく読んでいるのに、時がたつにつれ忘却の彼方で、せっかく読んでも意味がないのでは?と思い始めた。
そこで、最近は息抜きに読んでいる軽い読み物は別として、理解したい、身につけたい!と思う本は2回以上読むことにしています。
うん。確かに1回よりは、2回の方が理解が深い気もするし、記憶に残っているのですが、(とくに小難しい本は)2回読んだ程度では上滑り感と言いますか…表面上何かわかった気になっているだけなのではないかと思いました。
そう思ったので、次はその本に似た本(同じテーマだったり、古典だったら漫画版、現代語訳版、解説本とか)を立て続けに読むようにしました。
さらに理解が深まった(気もする)
けれども、消えないのです。
分かった気になっているだけでは?という感じが。
しっかり自分の骨身にしみたという感触がない。
今知識をインプットしたところで、アウトプットが上手くいかない気がする。
もちろん2度読んだのだから作品紹介はできるでしょう。
しかし作品紹介どまりなのです。
確固たる自分の意見を出すまで、自分がその知識を使いこなすまでに至っていない気がするのです。
以前ブログでこんなことを書いた。
日本は世界に比べるとすごく高い識字率で、途上国では文字が読めない人が大勢いるということは知っている。
1枚の服の背景に思いをはせて、服を買う「主婦の手帳」より
綿花にかかわらず、あらゆる農作物が農薬とセットで種が売られていることも知ってる。
そういう1つ1つの知識はあっても、だから、途上国では文字が読めないために適切な扱いができず健康を害して、コットンを栽培している人がいるというところまで、この本を読むまで全然思い至らなかった。
あぁ想像力のなさってこういうことなんですね。
知識として知っているけれど、それがどういうことになるのか読めないというのは、想像力のなさもそうだけど、その知っていると思っていた1つ1つの知識も深い知識ではなかったのだろうな。多分。
分かったつもり、知っているつもりになっていただけなのかもしれない。
30年以上生きてきて、いっぱい学んだと思っていたことの多くが(もしかしたら全部⁉)「つもり」だったのではと気付いた衝撃よ。
そしてもう1つ気が付いた。
今まで大の本好きだったけれど、小難しい本はあまり読んでこなかったし、学校の教育もテストのための勉強ですっかり忘却の彼方だし・・・本は娯楽であり、学びになっていなかった。
だから私には、本を読み、自分なりに調理する(考える)ための道具(思想・理論)がない。
道具もなければ、食材(知識)もない。
今ブログを書いている暮らしのことであれば、今私は「ミニマリズム」と言う道具を使って、考えられる。
ある程度知識もある。
だからこうして自分なりに(不格好でも)試行錯誤できる。
けれど、政治は?経済は?世界の果てで起こっている紛争については?芸術については?
そんな本を読んでも、ニュースを見ても、「ふむふむ。そうなんだ。」で終わってしまって、「本当にそう?こんな風には考えられないか?」「これから先こういう未来になりそうだ・・・」なんて思う暇もない。
ということで。
この方法があっているのかどうかはわかりませんが、現在読書を極めるために(大好きな本をただ楽しかったで終わらせず、意味ある学びにするために・・・)学び直しを始めたところ。
とはいえ、学びたいものはいっぱいあるし、どこから手を付けていいやら皆目わからないながら、試行錯誤しています。
少しでも身になって、このブログも少しは面白くなればいいのだけれど。フフフ。