キャビネット内の引き出しを見直しました。
見直すと出てきたのは、吸盤(娘のおもちゃになると思って紐をつけていたけれど…どうもうまく機能しなかった)、マスキングテープの芯(同じく娘のおもちゃ(紐通し)に変身させようと思っていたけれど、新たに紐通しとしても遊べるおもちゃを購入したので不要になった)、そしてリボン(何かの贈り物についていたもの)。
娘が生まれてちょっとしたモノが、娘のおもちゃになるので多少そういう工作の素材をため込んでいました。
けれどいくつか作ってきましたが、作るために素材をとっておかなくても、その時あるもので何とかなるものです。
そして、その時に手に入らないようなものは作らない・・・
紐通しを作ろうとマスキングテープの芯をせっせととっておいたわけですが、いつになったら集め終わるかわからないモノは、いつになっても作らないと確信しました。
こういうものをいついつまでに作る!と決めないようなものは、作らないも同義。
元来工作好きなわけでもない、ものぐさな私は、思いついて、手軽にササッとその時にある材料で作れるものがいいみたい。
そういえば、娘が立てるようになったら使うだろうとせっせと制作していた牛乳パック椅子も結局途中で断念してしまいましたしね。
先日ブログに報告し忘れていたのですが、靴箱を見直した時に折り畳み傘も手放しました。
この傘は大学時代に買ったもの。
何と持ち手が猫の肉球で、触るとぷにぷにしています。
これを使わなくなったのは、いつからだろう。
全く使わなかったわけではありませんが、1年に1回とか2回しか使わなくなったのは、いつからだろう。
結婚する以前から年間を通して、ほとんど使われないものになっていました。
それは、大学時代はかわいいと思っていた肉球デザインがちょっぴり持つには恥ずかしい気持ちになってきたことと、この傘を買ってすぐのころは傘を広げると必ず流血していたという苦い思い出があるからです。
傘の作りがちょっと悪かったのでしょうね。
傘を広げるときにカチッと止まる箇所がちょっと鋭利なのか広げたら必ずそこに触れた指から流血していました。
そんな傘をなぜ今まで持ち続けていたかというと、使うにつれて私が傘に順応し、鋭利な部分に触れぬようそっと傘を開くようになったことが1つ、極力使わぬようにしたので不便に思う頻度が激減したことがもう1つ、そして…傘にそれほど思い入れがなかったのでまたお金を払って買い換えたい気持ちが湧いてこなかった(あまり使わない傘にお金を使おうという気持ちが湧かなかった)のが1番の理由です。
でも考えてみればおかしな話です。
折り畳み傘はあまり使わないから、新しく買いたくない→新しく傘を買わないなら今ある傘を持っておこう
使わないのは、流血する傘だからなのに。
新しく、流血せず、肉球のデザインでない傘ならばもっと出番はあっただろうに。
いやそもそも、流血が怖くて使わないで何年も過ごしてきたのです。
だったら…新しい傘も要らないのでは?
今更ながらそんなことに気付きました。
私には長傘があれば十分。
また必要になった時は、その時に必要なスペック(軽さなのか、家族共用なのか、晴れ雨兼用なのか…など)の折り畳み傘を購入すればいい話。
新しく買わないからと言って、使わない傘を持ち続ける理由にはならないとようやく気が付いて手放しできました。
この週末は夫も断捨離スイッチがONになったので、夫と二人でちょこちょこ断捨離。
学生時代の教材の一部、トラベル雑誌、書類、娘のおまるの付属品などを手放し。
手放したり、話し合ったり…そんな週末を経て気づいたのは、ちょっといい気になっていた私です。
実はこのところだいぶ日々の暮らしに余裕が出てきました。
この余裕というのは、経済的な余裕とか時間的余裕とかではなくて、私の心の余裕が出てきたのです。
その理由を私は、いろんなものを手放してミニマルな暮らしを追求していることや最近早起きをしていることや、筋トレを習慣にしていることや、食生活に気を配っていることなどなどだと思っていました。
つまり、私がいま取り組んでいることのおかげだと。
私はちゃんとやってるぞ!って。
でもね。
ミニマルな暮らしができるのも夫が理解してくれているからだし、早起きできるのも、筋トレできるのも食生活に気を使えるのも…すべて陰では夫の協力があった。
それなしにはできない事でした。
それなのに、あろうことか筋トレや早起きや食事を夫にお勧めしたりしていた。
夫は私が自由にそういうことに取り組めるよう頑張ってくれていて、そのために時間も体力もなかったというのに。
ミニマルな暮らしを始めて「おかげさま」な気持ちを以前より感じることができるようになってきた、小さなことにも幸せを見出せるようになってきたと思っていたけれど…まだまだですね。
やはり一番身近な家族には、どうしても甘えが出てしまうようです。
良かった。今気づいて。
そういえば、昔から母が言っていました。
人生は修行よって。
たしかにそうかもしれない。
昔は、そんな母の言葉に反発していた。
修行なんて嫌だ!全然幸せそうじゃない!って。
そんなに自分ばかり苦労して何になるの?と。
私ばっかり損してる。周りは自分勝手にしてるじゃない!って。
そう思っていました。
人生は修行って、いやなこともやらなきゃいけない、周りのために尽くさないといけない、そういう表面的なことしか理解していなかった。
嫌なこともやらなくてはならないのは、自分に利益がなくても周りのために尽くさないといけないのは、徳があるとか、人として良いとかそういうことではなくて、自分の大切な人との大切な暮らしを守るためなんだ。
人間は、どうしても自分自分と自分が一番になってしまうから、一緒に暮らす自分の大切な人と幸せになるためにはちょっぴり自分をしつけなければならないのだ。
自分目線ではなくて、相手目線で考えれるように。
自分の尊厳を守るのではなく、相手の尊厳を守るために。
それが修行。
そして自分の大切な人のことを大切に考えれるようになったら、きっと同じ地域の人の立場にたって、同じ国の人の立場にたって、同じ地球に住む人の立場になって、生きとし生けるすべての生き物の立場になって考えられるようになるのかも。
母の教えはもう1つ。
言葉には魂があるのよ。
わかっていてもいつの間にか当たり前に思ってしまうことがあるから、しっかり心に刻んでおこう。
おかげさま。おかげさま。